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信長の懐刀だった光秀(最終回) [明智光秀]

光秀が信長に抱く感情は微妙なものでした。

信長との良好な関係を築くための”潤滑油”(妻の妹で信長の”お気に入り”)を失くし、落胆した光秀の心情がそのことを物語っているように思えます。

光秀のことを忠実な僕(しもべ)であり、懐刀だと思っていた信長。一方で、光秀は表面的には信長に服従しているように装いつつ、内心は気難しい主君へ仕えることに疲れはじめていたのかもしれません。

そこへ、光秀に信長から、ある”密命”が下ります(その内容については、是非とも近著の双葉新書をご一読下さい)。信長の命令を実行すべきかどうか。光秀はずいぶん悩んだことでしょう。この2人の主従関係こそが「本能寺の変」の真相へとたどりつく有力な手がかりだと考えています。

一方、信長の半生を振り返ってみると、人に裏切られることの繰り返しでした。義弟の浅井長政にはじまり、松永久秀には2回裏切られ、そして荒木村重と明智光秀。長政が離反した際にも、

「浅井は歴然御縁者たるの上(中略)虚説(嘘)たるべき」(『信長公記』)

といい、すぐにその裏切りを信じませんでした。村重の謀叛(今後、皆さんとともに考えたいテーマのひとつです)のときにも、信長は話を耳にして、

「何の恨みありて逆意を企つべき。さだめて巷説こそあらん。彼たとい一旦誤って反逆をいだくとも、われ何ぞ小過もって大臣(村重のこと)捨てる事を得んや」(『陰徳太平記』)

と嘆いています。村重謀叛の話は巷説であり、もしそれが事実だとしても、それは小さな過ちであっ
て、それをもって村重を切り捨てることなど考えも及ばないとまでいっています。

その「人を信じすぎる」という性格が長所でもあり、また、信長の短所であったと思います。そして、その性格が最後に禍いしたのでしょう。

次回(明日の予定)も引き続き、信長について考えたいと思います。



信長の懐刀だった光秀③ [明智光秀]

信長が光秀に絶大な信用を寄せる一方、光秀は信長をどう思っていたのでしょうか。

宣教師フロイスはこう述べています。

「(光秀は)誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関していかさかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らは(そうでないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」

ここからわかるのは、気難しい主君の「親愛」を得るために光秀がいかに苦労していたかということでしょう。信長自身、そこまでして光秀が自分に気に入られようと汲々としているとは自覚していなかったのかもしれません。その意味では、(羽柴)秀吉と信長の主従関係とはまるでちがう関係だったことが窺われます。

光秀はまた、妻の妹を通じて信長との良好な関係を築いていたようです。『多門院日記』に、

「維任(光秀)ノ妹ノ御ツマキ(妻木)死了。信長一段ノキヨシ(気良し)也」

と書かれています。

【これは本能寺の変が起こる一年前の日記。光秀が明智一族の妻木氏から娶った妻(煕子)には妹がいて、その女性が信長の“お気に入り”だったという。

愛妾とまではいかないかもしれないが、この義妹の死に光秀は「向州(光秀)無比類力落也」と大きなショックを受けている。光秀の従妹である信長正室(帰蝶)の当時の消息は不明だが、比較的早い時期に死去しているというのが一般的。したがって、光秀にしたら、従妹の代わりにこの義妹が主君のお気に入りでいてくれることは何かと都合がよかったのだろう。だからこそ、大きなショックを受けたのである】(著書『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』より引用)

その義妹は、光秀にとって仕えにくい主君との”潤滑油”になってくれていたのではないでしょうか。(つづく)

信長の懐刀だった光秀② [明智光秀]

比叡山焼き討ちは信長の残忍さを示す象徴的なエピソードとして語られることが多いと思います。

【比叡山焼き討ちの際、僧俗を問わず撫で斬りにしろと命じた信長の所業も光秀の謀叛の動機の一つに挙げられるが、それはとんでもない誤解。比叡山焼き討ちの十日前に、信長に対抗する周辺の土豪らを

「なてきり(撫で切り)ニ仕るべく候」(『和田頴一家文書』)

という覚悟を示した光秀の書状も残っており、光秀こそ、信長の家臣の中で最も忠実にその命を実行する僕(しもべ)だったのである】(7月5日発売の著書『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』より引用)

この焼き打ちの際の恩賞として、光秀は近江志賀郡をたまわり、大津坂本の地に壮麗な城を築きます。

『信長公記』に、焼き討ちの恩賞が記されているのは光秀だけです。それこそ、自身の指示どおりに行動する光秀という部下に対する信頼の証しではないでしょうか。

【本能寺の変の二年前になっても、光秀に対する信長の信頼は揺るがない。その年、信長は重臣の佐久間信盛らを追放するが、その際の弾劾状の第三条に、

「丹波国の日向守(光秀)が働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし(後略)」

とあり、丹波を平定した光秀の功績を秀吉よりも上位に挙げ、信盛の怠慢を非難している】(前同より引用)

この光秀に対する信頼こそが、本能寺の変の真相に至る鍵のひとつだと考えています。絶大な信頼を寄せる家臣だったからこそ、信長は光秀に重大な任務(「最終決着! 本能寺の変」参照)を与えることができたのでしょう。

それでは、その信長に対して、光秀はどのような思いを抱いていたのでしょうか。(つづく)


信長の懐刀だった光秀① [明智光秀]

NHK大河ドラマ『江~女たちの戦国~』で豊川悦司扮する織田信長は、気真面目すぎる明智光秀がもう一皮剥けて人間的成長を遂げられるよう、敢えて冷たくあたったという設定でした。ところが、そんな信長の”親心”が光秀には通じず、本能寺の変へと至りました。

信長はいわば、主君として有能な家臣の能力アップに勤めようとしていたという面で新鮮味はありましたが、やはり、”冷たくあたった”という面では通説に準じていました。実際の主従関係は、これまで考えられてきたものとかなりちがっていたと思います。

光秀が信長に仕えたのは永禄10年(1567)から翌11年にかけてと考えられますが、その2~3年後、新参者の光秀に対して、信長は早くも次のような信頼を寄せています。

永禄13年2月、信長が岐阜から京へ上洛したとき、信長を山科まで出迎えた公卿の日記に、

「(信長が)明智十兵衛尉所へ被付了」

として、上洛した信長がまず真っ先に光秀の宿所を訪ねたことを記しています。そこで何やら鳩首していた様子が目に浮かびます。2~3年でよほどの信頼関係が構築されていたのでしょう。

そんな信長と光秀の蜜月関係を、他の家臣らは快く思っていませんでした。それは宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に、

「(光秀は)殿内にあっては余所者(よそもの)であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な起用さを身に備えていた」

とあることで証明されているといえます。

そして、信長が光秀に対して絶大な信頼を抱き、やがて自身の懐刀とするに至る事件が元亀2年(1571)9月に起こります。比叡山焼き討ちです……。(つづく)

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