信長の懐刀だった光秀② [明智光秀]

比叡山焼き討ちは信長の残忍さを示す象徴的なエピソードとして語られることが多いと思います。

【比叡山焼き討ちの際、僧俗を問わず撫で斬りにしろと命じた信長の所業も光秀の謀叛の動機の一つに挙げられるが、それはとんでもない誤解。比叡山焼き討ちの十日前に、信長に対抗する周辺の土豪らを

「なてきり(撫で切り)ニ仕るべく候」(『和田頴一家文書』)

という覚悟を示した光秀の書状も残っており、光秀こそ、信長の家臣の中で最も忠実にその命を実行する僕(しもべ)だったのである】(7月5日発売の著書『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』より引用)

この焼き打ちの際の恩賞として、光秀は近江志賀郡をたまわり、大津坂本の地に壮麗な城を築きます。

『信長公記』に、焼き討ちの恩賞が記されているのは光秀だけです。それこそ、自身の指示どおりに行動する光秀という部下に対する信頼の証しではないでしょうか。

【本能寺の変の二年前になっても、光秀に対する信長の信頼は揺るがない。その年、信長は重臣の佐久間信盛らを追放するが、その際の弾劾状の第三条に、

「丹波国の日向守(光秀)が働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし(後略)」

とあり、丹波を平定した光秀の功績を秀吉よりも上位に挙げ、信盛の怠慢を非難している】(前同より引用)

この光秀に対する信頼こそが、本能寺の変の真相に至る鍵のひとつだと考えています。絶大な信頼を寄せる家臣だったからこそ、信長は光秀に重大な任務(「最終決着! 本能寺の変」参照)を与えることができたのでしょう。

それでは、その信長に対して、光秀はどのような思いを抱いていたのでしょうか。(つづく)


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