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関ヶ原古戦場(最終回) [徳川家康]

徳川家康は小早川秀秋の内応を想定して、敢えて西軍の懐に飛びこむという味方(東軍)不利な陣形を選択しましたが、本当に秀秋が裏切るかどうか不安でなりませんでした。

『関ヶ原御合戦当日記』には、

「かねて秀秋、松尾山にて狼炎(狼煙)を上げ、裏切りあるべく旨、諜(しめ)し合せられけれ」

とあり、秀秋が狼煙を上げると同時に裏切る手筈になっていたようですが、一向に狼煙は上がりません。家康は「御心もとなく思(おぼ)し召し」(『同』)、焦りを募らせます。そしてその焦りがピークに達したとき、冷静な家康にしてはめずらしく、感情を露わにします。

そのとき、馬廻りの若武者の1人が家康の前を横切りました。たしかに、総大将の前に立ちふさがる形になるわけですから、無礼な行為です。ただ、家康が平常心でいたらどうだったでしょうか。

このとき家康は激怒して若武者に斬りかかり、驚いた若武者に逃げられると、こんどは怒りの矛先を傍らの小姓にむけ、旗指物の筒をバッサリ一刀両断のもとに切り落としたといいます。これは従軍していた家康の侍医の日記で確認できる話ですから、事実だったと思います。

家康が桃配山から平野部(のちに陣場野と呼ばれる)へ本陣を移したのも、苦戦する東軍の各部隊を督戦する意味があったからでしょう。

その後、ついに業を煮やした家康が秀秋の松尾山にむかい、鉄砲を打ちかけさせた話は皆さんご承知のとおりです。その家康の威嚇に、ついに秀秋は裏切りを決意し、一転して西軍の大潰走がはじまります。しかし、それまで家康は生きた心地がしなかったでしょう。家康が西軍諸将へ調略の手を伸ばし、合戦前から勝負が決していたといわれていますが、なかなかどうして、家康にしたら、薄氷を踏むような勝利だったのだと思います。

下の写真は陣場野の家康本陣跡です。

徳川家康最後陣跡②.jpg

ところで、(6月)26日放送の大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』は豊臣秀吉の茶頭・千利休の切腹について取り上げるようですが、次回、本ブログでも利休切腹の謎について、あれこれ考えてみたいと思います。






関ヶ原古戦場⑤ [徳川家康]

松尾山での籠城をあきらめた石田三成は9月14日の夜、西軍(総勢8万4000)を本営の大垣城から関ヶ原に進め、山々に鶴翼の陣を敷きます。両翼の大きな翼で中央の平野部を包みこむ陣立てでした。

一方、徳川家康の東軍は、あえて死地となる中央の平野部へ布陣しました。翼を広げる鶴の懐に飛びこんだ形になり、全軍が殲滅される恐れがありました。東軍(総勢7万5000)が布陣を終えたのは15日早朝のこと。のちに明治政府の軍事顧問メッケルが布陣図をみて西軍勝利と断言しています。

それではなぜ、家康は敢えて不利な作戦を選んだのでしょうか。家康が最も恐れていたのは、戦いが長期化し、東軍に属する豊臣恩顧の武将が西軍に寝返ることでした。それを避けるため、この日1日で一気に決着をつけようとして、不利な陣形を厭わず、西軍に決戦の姿勢をみせたのでした。もちろん、松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返ることを想定した上での作戦でした。

実際に、午前8時ごろ激戦の火蓋が切って落とされると、正午ごろまでは西軍優勢に推移します。

「関ヶ原古戦場①」で述べたとおり、関ヶ原は大軍勢がぶつかり合う野戦に適した土地ではありません。したがって、激戦といっても、平野中央部の西軍(宇喜多秀家隊)と東軍(福島正則隊)、笹尾山の三成隊とその前面に布陣する東軍諸隊(黒田長政隊ほか)などが動いただけ。ほかの部隊は、リング上の戦いを眺める観衆よろしく、各自の陣地で戦いの趨勢を見守っていただけでした。

写真は宇喜多隊本陣跡(上)と福島隊本陣跡(下)。

宇喜田秀家陣跡②.jpg

福島正則陣跡②.jpg

しかし、家康は焦っていました。もしも秀秋が裏切らなければ、このまま西軍に押し切られ、思惑とは逆に、緻密な家康の天下取り作戦がたった1日で瓦解してしまう恐れがあったからです……。(つづく)

家康と関ヶ原の合戦② [徳川家康]

関ヶ原の合戦はご存じのとおり、慶長5年(1600)9月15日の朝、「小雨降り、山間なれば霧深くして五十間先は見えず」――と、古記録が記す気候条件の中、火蓋が切られます。

その前日のことです。『美濃国雑事記』に驚くべき話がでています(以下、要約)。

14日の朝、西軍の襲撃を警戒した家康は東軍の本営となっていた岐阜城で東軍の本体と分かれ、北へ迂回して西上します。しかし、逆に家康のそうした動きは西軍に読まれ、その途中で島津義弘の鉄砲隊が待ち伏せていたのです。

井伊直政隊と松平忠吉隊に続いて家康の輿が通過すると、道の両側に伏せていた島津隊の鉄砲隊のうち、まず左側の100挺が一斉に火を噴きます。すると、輿の左側の警護兵がどっと倒れ、次に、輿の右側を同じく100挺の鉄砲が狙い、警護兵を倒します。これで家康の輿は丸裸。そのとき義弘がすかさず、鉄砲名人の唐人に家康の輿を直に狙わせます。弾は見事左から右へ貫通。ところが奇跡的に弾は家康にあたらず、

「ひとえに天の御助けにて」

と、『美濃国雑事記』は感嘆しています。その後も家康は島津勢に追いつめられ、一時は直政が「それがし介錯仕るゆえ、ご切腹を」と家康に進言するほど、窮地に陥ったのです。

この1回目のピンチは本多忠勝の捨て身の活躍で窮地を逃れたものの、戦況は好転せず、こんどはその忠勝が「もはやこれまで」といい、家康に切腹を進言します。そこに、外様でありながら譜代の臣以上に信任厚い藤堂高虎が駈けつけて来て、2回目の窮地を救ったという話です。

以上の話は、ほかの逸話とダブっており、とても史実とは考えられません。ただ、「敵陣中央突破」という勇猛果敢な島津勢の強烈な印象がこうした伝承を残したのだと思います。

ともあれ、現代の小説を含めて家康ほど”異説”が生まれやすい武将もいなかったといえるかもしれません。
(次回も引き続き、関ヶ原の合戦について考えたいと思います)

家康と関ヶ原の合戦① [徳川家康]

6月13日(月曜日)発売の週刊大衆で、家康の影武者についての謎解きにチャレンジしています。

家康というと、影武者が登場する小説をよく目にします。たとえば、隆慶一郎氏(故人)の小説『影武者徳川家康』は、家康が関ヶ原の合戦で殺され、以降、世良田二郎三郎という者が影武者をつとめたという設定でした。つまり、小説では、ホンモノの家康が関ヶ原の合戦で亡くなったことになっています。このほか、大坂夏の陣の際、家康が大坂方に追い詰められて堺で切腹し、家臣がこっそり家康の遺体を葬ったとする「家康の墓」なるものが、その堺に残っています。

このように家康が生を全うせず、途中で殺されてしまうという設定は、彼が天下をとったからこそ作られたものなのでしょう。”戦国の最後の勝者”ともいえる「天下人家康」に対して、作家が創作意欲をかきたてられるのは自然だと思いますし、「じつは”天下人家康”はこんなところで死んでいた」という伝承はインパクトあるものとして、その真偽はともかく、のちのちまで語り継がれていったようです。

そこで、関ヶ原の合戦の家康に関する面白い史料をみつけたのでご報告しておこうと思います。

関ヶ原の合戦で西軍が潰走し、逃げ遅れた島津義弘が家康の本陣を突っ切った「中央突破」の話は有名ですが、家康はその島津軍によって、二度まで「切腹」の危機に追いこまれたことを記す史料です。

その内容というのは……。(つづく)
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