家康と関ヶ原の合戦② [徳川家康]

関ヶ原の合戦はご存じのとおり、慶長5年(1600)9月15日の朝、「小雨降り、山間なれば霧深くして五十間先は見えず」――と、古記録が記す気候条件の中、火蓋が切られます。

その前日のことです。『美濃国雑事記』に驚くべき話がでています(以下、要約)。

14日の朝、西軍の襲撃を警戒した家康は東軍の本営となっていた岐阜城で東軍の本体と分かれ、北へ迂回して西上します。しかし、逆に家康のそうした動きは西軍に読まれ、その途中で島津義弘の鉄砲隊が待ち伏せていたのです。

井伊直政隊と松平忠吉隊に続いて家康の輿が通過すると、道の両側に伏せていた島津隊の鉄砲隊のうち、まず左側の100挺が一斉に火を噴きます。すると、輿の左側の警護兵がどっと倒れ、次に、輿の右側を同じく100挺の鉄砲が狙い、警護兵を倒します。これで家康の輿は丸裸。そのとき義弘がすかさず、鉄砲名人の唐人に家康の輿を直に狙わせます。弾は見事左から右へ貫通。ところが奇跡的に弾は家康にあたらず、

「ひとえに天の御助けにて」

と、『美濃国雑事記』は感嘆しています。その後も家康は島津勢に追いつめられ、一時は直政が「それがし介錯仕るゆえ、ご切腹を」と家康に進言するほど、窮地に陥ったのです。

この1回目のピンチは本多忠勝の捨て身の活躍で窮地を逃れたものの、戦況は好転せず、こんどはその忠勝が「もはやこれまで」といい、家康に切腹を進言します。そこに、外様でありながら譜代の臣以上に信任厚い藤堂高虎が駈けつけて来て、2回目の窮地を救ったという話です。

以上の話は、ほかの逸話とダブっており、とても史実とは考えられません。ただ、「敵陣中央突破」という勇猛果敢な島津勢の強烈な印象がこうした伝承を残したのだと思います。

ともあれ、現代の小説を含めて家康ほど”異説”が生まれやすい武将もいなかったといえるかもしれません。
(次回も引き続き、関ヶ原の合戦について考えたいと思います)
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