賤ヶ嶽の合戦の真相③ [豊臣秀吉]

秀吉にとって大きな誤算は、信孝(信長の3男)が織田家の家督を相続した三法師(信長の嫡孫)を岐阜城に留め置いたことでした。

清洲会議で三法師は安土城へうつることが決定していたのです。秀吉は、かつての同僚ながら信頼する堀秀政を安土城の三法師の代官とし、事実上、三法師の代理として振る舞うことを意図していましたし、実際にそうした行動をとっています(賤ヶ嶽の合戦の真相①参照)。

ところが、大事な御輿(みこし)を岐阜城主の信孝に奪い取られる形となりました。信孝を攻めることは織田家に弓引くことになり、明智光秀のように謀叛人の烙印をおされることになります。それだけは何としても防がねばならず、秀吉は信長の4男(信雄)を推戴することに成功します。

そして、信孝が居城の岐阜城で合戦の準備を始めると、天正11年(1583)の12月、柴田勝家の北ノ庄城(福井市)が雪に閉ざされている隙に、秀吉が機先を制して信孝を降します。そして翌年3月、秀吉が勝家に与(くみ)する伊勢の滝川一益を攻めているとき、雪どけを待って勝家が2万余の兵を近江の柳ヶ瀬(長浜市)まで進めてきました。

一方の秀吉は、柳ヶ瀬の南、木之本へ総勢2万5000余の兵を転回させ、琵琶湖北端の余呉湖(よごのうみ)を囲むように砦を築き、柴田勢と対峙します。

こうして、しばらく両軍の睨み合いが続きます。しかし、4月17日になり、戦局は大きくうごきます。

秀吉に降っていた信孝が岐阜で再挙兵したのです。そのことを知るや、秀吉は密かに本隊を率い、岐阜へ急行します。その動きを知った佐久間盛政(勝家の甥)は、夜のうちに間道をつたい、20日の早朝を期して秀吉方の岩崎山・大岩山の砦を急襲するのです。

そして、盛政は賤ヶ嶽砦に迫ろうとします。ここを落とされたら、羽柴軍の陣地全体が切り崩される恐れが生じます。このときです。ある武将が羽柴軍のピンチを救ったのです……。(つづく)

下の写真は賤ヶ嶽山頂から余呉湖を見下ろしたところです。

賤ヶ岳山頂より余呉湖.jpg
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