賤ヶ嶽の合戦の真相④ [豊臣秀吉]

秀吉不在の情報を掴んだ佐久間盛政(柴田勝家の甥)は、秀吉方の岩崎山・大岩山の砦を急襲したのち、賤ヶ嶽砦に迫ろうとします。

このとき、意外なヒーローが羽柴軍の窮地を救います。そのヒーローが丹羽長秀です。

勝家と共に、織田家の重臣でありながら、勝家が“掛かれ柴田”と謳われる猛将であるのに対して、“米五郎左”と呼ばれる地味な武将です。

しかし、米(コメ)は地味な存在ですが、なくてはならないものです。江戸時代の随筆『翁草』に書かれた喩えはじつに的を射たものだと思います。このときも長秀は米五郎左”らしく、絶妙のサポートをみせます。

長秀は秀吉方に属し、賤ヶ嶽の西方およそ10㌔の海津(琵琶湖に面した湊町)周辺に7000の兵を駐留させていました。ところが、秀吉率いる本隊の岐阜ゆきで手薄になった諸砦が気にかかり、船で偵察にいきます。

賤ヶ嶽に近づくと、予想どおり銃声轟き、諸砦危うしと踏んだ長秀。すぐさま自陣(海津)へ加勢の命令を送ると同時に、自ら上陸します。そして、賤ヶ嶽砦の守将・桑山重晴はすでに逃げたという報に接するや、足の早い者を呼び、重晴に「ただ今着陣候。急ぎ帰られ候へ」(『太閤記』)という口上を伝えさせたのです。

こうして、長秀は賤ヶ嶽砦を死守します。秀吉も、この長秀のサポートを第一の軍功と考え、合戦後、その領地は120万石へ大加増されます。

それにしても、織田家重臣の長秀がなぜ、成り上がり者の秀吉を支持したのでしょうか。秀吉が信長の嫡孫(三法師)を推戴したことから、どうも長秀は、大真面目に秀吉が織田家を再興してくれると思っていた節があります。その証拠に、2年後に秀吉の天下がほぼ確定するや、長秀は抗議の意味で割腹して果て、自らの肉腫を抉りだし、遺書と共に秀吉へ送りつけたと伝わっています。

さて、話を合戦に戻すことにしましょう。長秀が賤ヶ嶽砦を死守したことで戦局はその後、大きく羽柴勢に傾きます。ここで佐久間盛政はある失敗をしでかしました。(つづく)
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