賤ヶ嶽の合戦の真相② [豊臣秀吉]

清洲会議の結果、秀吉の居城・近江長浜城はライバルの柴田勝家に譲ることになります。長浜は北国街道が通る交通の要衝。越前の勝家にしたら、ここを秀吉に押さえられていたら目触りで仕方がなかったからです。

清洲会議が終わって、しばらくたったころの話です。すでに勝家の持ち城になっていた長浜城に勝家与党の武将らが集まり、有馬温泉で湯治(とうじ)中の秀吉へ刺客を派遣するという謀略をこらします。

有馬温泉は皆さんご存じ、神戸市にある有名な温泉地です。秀吉がよく訪れたことでも知られ、天正18年(1590)には有馬で大茶会を催しています。戦国時代、合計20の宿坊(旅館)があったとされます。秀吉はそのひとつの坊に寄宿していました。

さて、勝家らの暗殺計画ですが、その話はたまたま長浜城にいた有馬法印(のちの三田藩2万石の藩主)という秀吉と入魂の者の耳に達します。彼は所領のある有馬へ飛んで帰り、すぐさま秀吉が投宿している坊へと向かいます。

坊の者に聞くと、どうやら刺客が先に到着して秀吉のいる2階で機会を窺っている様子です。そこで法印、梯子の上の段まで駆け上がり、「筑前殿(秀吉)!」と呼びかけつつ、「ご相談を承るため、ここまで参りましたぞ」と大声で叫びます。いままさに秀吉の部屋に飛びこもうとしていた刺客は当然、タイミングを失してしまいます(以上、『武功雑記』)。

その法印の機転により、刺客は暗殺をあきらめ、秀吉はのちのちまで、このときの恩を忘れなかったといいます。

その後、長浜城を預かっていた勝家の甥(養子)勝豊が、秀吉の調略によって寝返り、秀吉はふたたび長浜城を取り戻します。こうして合戦の機は熟してきます。(つづく)

下の写真は長浜城。桜の名所としても知られる。

豊公園・長浜城歴史博物館②.jpg




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