賤ヶ嶽の合戦の真相① [豊臣秀吉]

秀吉の「天下統一戦」において、何が最も重要な合戦だったかと問われたら、躊躇なく「賤ヶ嶽の合戦」と答えると思います。秀吉が「山崎の合戦」で明智光秀を討ったとはいえ、それはあくまで家臣として、主君・織田信長の仇を報じたにすぎません。

しかも、秀吉は総大将に信長3男の信孝を推戴していました。秀吉は世間的にいうと、信孝の補佐役という位置付けになります。

一方の賤ヶ嶽の合戦は、ポスト信長の地位を争い、秀吉がライバル柴田勝家を蹴散らせて一気に”天下”を引き寄せた一戦になりました。当時、群雄たちは戦国最大勢力である織田家の内部抗争を見守っており、世間は”ポスト信長=天下承継者”という認識を持っていたと思います。

しかし、「賤ヶ嶽の七本槍」などで知られる同合戦もまた、多くの謎に満ちています。そもそも、秀吉の勝因はどこにあったのでしょう。NHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』では一切触れられていませんでしたが、この合戦で秀吉に勝利をもたらしたのは、ある”意外な武将”でした。

その話の前提として、まず合戦へと至る経過を確認しておきましょう。

天正10年(1582)6月13日の山崎の合戦で光秀が討たれたあと、公卿の日記を読むと、秀吉から総大将に推された信孝は、6月27日に信長の重臣や近臣が後嗣問題や戦後処理問題を話し合う「清洲会議」が開かれるまで、信長の「跡目」として振舞っています。

しかし、清洲会議で信長の後継に決定したのは嫡孫の三法師。信忠(信長嫡男)の家臣前田玄以が本能寺の変の急報を受けて匿い、この日まで大事に庇護していた童子です。ご存じのとおり、後継者としてこの三法師を推したのが秀吉。一方、信孝を推したのが柴田勝家でした。

三法師が安土城と共に相続した近江坂田郡の所領の代官には、山崎合戦で秀吉と共に戦った堀秀政がつき、こうして三法師の周囲を入魂の者で固めた秀吉は、みずから三法師をともなって京の本圀寺に入り、7月11日には多くの公卿衆の来訪を受けます。

こうして、秀吉はそれまでの信孝に代わって、信長の後継者たる地位を喧伝しはじめるのです。

そうなると、光秀を討ち、信長の後継者として振る舞っていた信孝は、梯子を外された形になります。ここに「信孝・勝家」グループが結成され、やがて彼らは秀吉陣営との頂上決戦へ突き進むことになりますが、清洲会議の直後から、その危機は孕んでいました。

『豊鑑』によると、「柴田勝家、道に兵をかくし、秀吉を討つ」という企みを秀吉へ密告する者がいたというのです。そこで秀吉は清洲から道を変え、無事、居城の近江長浜城へ帰りついたといいます。しかし、ほかにも柴田陣営の”秀吉暗殺計画”が秘かに進められていたのです。(つづく)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。