「天下分け目の天王山」の謎(最終回) [豊臣秀吉]

通説は、12日夜から13日未明にかけての天王山争奪戦(「天下分け目の天王山」の謎①参照)は羽柴軍の勝利に終わり、その後の戦いを有利に進めたとしていますが、いまでは、この争奪戦そのものがなかったという方向に傾いています。

そこで、史実と考えられる合戦の経過を追ってみることにします。

13日、両軍は雨の中、天王山の北を流れる円明寺川(現・小泉川)をはさみ、北に明智軍、南に羽柴軍が対峙。明智軍1万8000(『明智軍記』)に対して、秀吉軍は、大坂で四国への渡航準備していた信長3男・信孝の軍勢や摂津衆をあわせ、総勢4万(『太閤記』)にふくらんでいました。

安土城接収の遅れで人心を掌握できず、軍勢が思うように集まらなかった光秀の誤算がまず、ここに現われています。

しかも、軍勢の士気にも大きな差がありました。明智勢の中には本能寺の変後、しぶしぶ光秀の軍門に降った北近江衆がかなりいて、彼らの士気は極めて低かったのです。これも初動の遅れが影響した結果でしょう。

一方の秀吉軍は「尼崎の城に入りて、法体して上りたまふ」(『老人雑話』)とあるとおり、秀吉が形だけの出家を遂げ、全軍に弔い合戦のムードが高まっていました。

その総勢6万近い大軍が動くのは午後4時ごろ。各史料からみて、先に攻撃を仕掛けたのは明智勢だったとみられます。ところが、日没までの2時間程度の僅かな間に決着がついてしまいます。

羽柴軍先鋒(右翼)の摂津衆池田恒興が明智勢の左翼に猛攻を加え、その隙に後続の加藤光泰隊が迂回(中入り)して明智軍を急襲したためです。この急襲に狼狽した明智の将兵は算を乱して逃走し、明智軍は自壊してしまいます。

羽柴軍が2倍以上の軍勢を擁していたとはいえ、天下分け目の合戦にしては、あっけない幕切れでした。

この合戦での光秀の最大の誤算は、本能寺の変以降、新たに降った近江衆の戦意のなさでした。加藤隊に急襲されただけで彼らは総崩れとなってしまい、天下分け目の合戦をあっけないものにしてしまったからです。

明智軍に加わっていた旧幕府軍は健闘するものの、もはや光秀としては勝竜寺城へ逃げるしかありませんでした。

以上の結果を踏まえると、もし光秀に初動のミスがなく、十分な軍勢を得て事前に天王山を占拠し、西国道最大の難所を扼すことができていたら、その後の歴史は大きく変わったはず。その意味では、標高わずか270㍍の天王山が天下を分けたといえるかもしれません。

ここまでの著述は、近著の『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』(下の写真)を参考にしました。次回(明日の予定)は秀吉の天下統一戦でより重要な「賤ヶ嶽の合戦」について書いてみたいと思います。

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