「天下分け目の天王山の謎」⑤ [豊臣秀吉]
本能寺で信長を討ってからの光秀は、誤算の連続でした。まず安土城の接収が遅れたこと。これによって、時間的ロスを生じさせ、同時に「光秀、頼むに足りぬ」という空気が流れて世間の信頼を失います。ついで、頼みにしていた筒井順慶に裏切られ、洞ヶ峠でまたしても丸1日時間をロスします。
はじめ、山崎で秀吉の進軍を阻止しようとしていた戦術は、これらの誤算が続いたことにより、転換を余儀なくされ、光秀は洞ヶ峠から下鳥羽・淀(京都市伏見区)方面へ軍を移し、山崎に駐留していた軍勢も引き上げさせます(前回参照)。
『兼見卿記』という公家の日記は、11日付で「向州(光秀)陣を返し、本陣下鳥羽に至る。淀之城普請云々」と書いてあります。
光秀は接収した淀城での籠城を視野に入れ、淀城を籠城に耐えられるだけの規模へと増築(普請)していたのです。その淀城の対岸にはこれまた接収した勝竜寺城(長岡京市)があります。つまり、山崎・八幡のラインから勝竜寺・淀へと前線を後退させ、寡兵をもって大軍を制するために籠城を検討していたのでしょう。
これが新たに考えた光秀の戦術でした。ところが、そこへ秀吉軍が上洛を目前にしているという情報がもたらされたらどうでしょう。淀城を、大軍の猛攻に耐えられるだけの城に増築する工事が間に合うはずはありません。光秀はここで、ふたたび作戦変更を余儀なくされ、淀城から桂川を渡河して、当初の予定どおり、羽柴軍を山崎で迎え討つ戦術に切り替えました。
このとき、光秀や明智軍の慌てぶりは、「その夜、雨のしきりに降りけるに桂川を無理に越しける故、鉄砲玉薬も濡れて用に立たざりし」(『老人雑話』)と記されています。誇張はあるでしょうが、火縄銃を濡らして使い物にならなくなるほど、光秀は慌てていたというのです。
これも、安土城の接収の遅れで「光秀、頼むに足りぬ」という空気が流れ、時間的ロスや裏切りなどが続いて作戦が二転三転したことに起因しているといえます。
そして明けて12日の夜、各史書は山崎で例の天王山争奪戦が始まったことを伝えるのです。
(つづく)
はじめ、山崎で秀吉の進軍を阻止しようとしていた戦術は、これらの誤算が続いたことにより、転換を余儀なくされ、光秀は洞ヶ峠から下鳥羽・淀(京都市伏見区)方面へ軍を移し、山崎に駐留していた軍勢も引き上げさせます(前回参照)。
『兼見卿記』という公家の日記は、11日付で「向州(光秀)陣を返し、本陣下鳥羽に至る。淀之城普請云々」と書いてあります。
光秀は接収した淀城での籠城を視野に入れ、淀城を籠城に耐えられるだけの規模へと増築(普請)していたのです。その淀城の対岸にはこれまた接収した勝竜寺城(長岡京市)があります。つまり、山崎・八幡のラインから勝竜寺・淀へと前線を後退させ、寡兵をもって大軍を制するために籠城を検討していたのでしょう。
これが新たに考えた光秀の戦術でした。ところが、そこへ秀吉軍が上洛を目前にしているという情報がもたらされたらどうでしょう。淀城を、大軍の猛攻に耐えられるだけの城に増築する工事が間に合うはずはありません。光秀はここで、ふたたび作戦変更を余儀なくされ、淀城から桂川を渡河して、当初の予定どおり、羽柴軍を山崎で迎え討つ戦術に切り替えました。
このとき、光秀や明智軍の慌てぶりは、「その夜、雨のしきりに降りけるに桂川を無理に越しける故、鉄砲玉薬も濡れて用に立たざりし」(『老人雑話』)と記されています。誇張はあるでしょうが、火縄銃を濡らして使い物にならなくなるほど、光秀は慌てていたというのです。
これも、安土城の接収の遅れで「光秀、頼むに足りぬ」という空気が流れ、時間的ロスや裏切りなどが続いて作戦が二転三転したことに起因しているといえます。
そして明けて12日の夜、各史書は山崎で例の天王山争奪戦が始まったことを伝えるのです。
(つづく)
2011-07-31 13:46
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双葉新書の「信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた」を読みました。信長ものが好きな60歳・男です。
素朴な疑問ですが、信長が、光秀を使って、家康を暗殺しようとした場合、本能寺での茶会の席を大軍で襲わせるような計画を立てるでしょうか?
安土城に宿泊している家康を、数名の刺客で襲わせれば、すむのではないでしょうか?それを光秀が私怨でやったことにすれば、いいのです。
なぜ、多数の来客が集まる本能寺の茶会の席を選んだのでしょうか?
私には、信長がそんなリスクの高い計画を立てるとは、思えません。
お答え頂ければ、幸いです。
よろしく、お願いいたします。
by 竹内元一(pde01301@nifty.ne.jp) (2011-07-31 18:06)
コメントありがとうございます。まず第一問目については、関係する部分を著書から引用させていただきます。
「家康主従が武田の旧重臣穴山梅雪をともない、信長の招きで安土に入ったのは五月十四日のこと。一行は二十一日まで安土に滞在するが、このとき信長はわずかな供廻りの家康を殺そうと思えばいつでも殺すことができた。
しかし、そうなると、この卑怯この上ない方法で主君を討ち取られた家康の家臣らは激昂し、滅亡覚悟で織田勢に戦いを挑みかけるはず。それより、光秀に因果をふくめ、彼が個人的な恨みで家康を討ち取ったという事実を作り上げれば、信長は家康の家臣たちから恨まれなくてすむ」
あくまで本能寺を包囲する軍勢はクーデター(後述)のためであって、家康を茶会で討ち取るのは、つまり刺客になるのは光秀1人です(おっしゃるとおり、数人の刺客を差し向ける手もありますが、当日は茶会が開かれており、身元の確かな者でないと、本能寺には入れなかったはずです)。
※p103~104もご参照ください。
それから第二問は、信長の陰謀の根幹をなす部分ですね。本能寺茶会で光秀に家康を殺させると同時に、信長は朝廷に対する一種のクーデター(p151~)を実行する計画でした。そのためには光秀の軍勢が必要であり、光秀に本能寺を包囲させようとしました。クーデターの直後、光秀が家康を討ち取れば、クーデターを逆手にとって光秀が家康を殺したと、事情のわからない者は思うはずです。したがって、クーデターと家康殺害という一石二鳥の効果が期待でき、しかも、家康の家臣に恨まれない方法。それは本能寺茶会の時を措いて他にはなかったと思います。
※p202~もご参照ください。
ご質問の答えになったかどうかはわかりませんが、以上、お答えします。
また疑問点がありましたら、いつでもご質問ください。ご意見等もおまちしております。
by ban (2011-07-31 23:40)