「天下分け目の天王山」の謎① [豊臣秀吉]

羽柴(のちの豊臣)秀吉はご承知のとおり、山崎で明智光秀の軍勢を蹴散らし、さらに賤ヶ嶽で宿敵柴田勝家を破って天下統一を一気に手元へ引き寄せます。そして、小牧で徳川家康と対戦して引き分けに終わるものの、その後、家康を臣従させ、ほぼ天下を掌中にします。

本日より、その秀吉の「天下統一戦」を取り上げたいと思います。

まず光秀を破る「山崎の合戦」の謎を追ってみましょう。

『広辞苑』を紐解くと、勝負事の勝敗の分かれ目のことを「天王山」と呼ぶ――とあります。これは山崎の合戦の際、羽柴軍と明智軍がこの山(京都府大山崎町)の占領を争い、秀吉の手に帰したことが勝敗の分かれ目となったためだとされるからです。

本当に、この山の占拠が両軍の勝敗を分けたのでしょうか。まず、この謎解きにチャレンジしてみたいと思います。通説はたしかに、この山の争奪戦を大きく取り上げています。

天正10年(1582)6月、備中高松(岡山県)から、姫路・尼崎へと怒涛の進撃をみせた秀吉軍は、なおも西国街道に沿って進みます。すでに摂津衆と合流していた秀吉は、四国渡海軍の大将で織田信長3男信孝の軍勢をもあわせ、総勢4万(『太閤記』)の大軍勢にふくらみます。

信孝は、本能寺の変の当日(6月2日)、四国の長宗我部元親を討つべく大坂から渡海する直前、父の悲報に接します。そして、疑心暗鬼に陥って渡海軍の中で内輪揉めを起こし、光秀の娘婿らを討ちとってしまうのです。

秀吉がそんなことしかできない信孝を総大将に戴いたのは、これも皆さんご承知のとおり、あくまで光秀との一戦が主君信長の仇を討つためだからでした。

一方の明智勢は1万8000(『明智軍記』)の軍勢でした。

この両軍が衝突するのは12日の夜のこと。羽柴勢の先鋒、摂津衆の高山右近(高槻城主)が山崎村を占拠したことに始まります。

同じく摂津衆中川清秀(茨木城主)は右近に負けじと、家臣の「こたびの合戦は、天王山を取り敷く方、勝利なるべし」という進言を容(い)れ、3000の兵の一部を天王山占拠にむかわせます(『中川家譜』)。

一方、この動きに抗して光秀が13日の黎明、1隊を天王山へ攻め上らせるや、秀吉軍の本隊からも堀尾吉晴らが加勢し、本格的に争奪戦がはじまります。

『新撰豊臣実録』によると、秀吉の弟秀長や秀吉の軍師黒田官兵衛らの部隊も加わり、この戦略拠点は秀吉方の手に帰します。

こうして、天王山を制した羽柴勢がこの合戦を優位に進めるというのが通説ですが、史実は決してそうではありませんでした……。(つづく)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。