「天下分け目の天王山の謎」② [豊臣秀吉]

勝負事の勝敗の分かれ目のことを「天王山」と呼んでいます。前回述べたとおり、これは「山崎の合戦」の際、羽柴軍と明智軍がこの山の占領を争い、秀吉の手に帰したことが勝敗の分かれ目となったためだとされてきました。しかし、それは誤りです。

結論的にいうと、天王山の占領はこの合戦に何ら影響を与えなかったどころか、天王山の占領をめぐり、両軍が争ったという『中川家譜』や『新撰豊臣実録』の記述は誤りで、争奪戦そのものがなかった可能性すらあります。

それでは、何が勝敗を分けたのでしょうか。それを探るには本能寺の変の直後にまで遡らなければなりません。

そこで、しばらく信長を討ち取った光秀サイドに立ってみていくことにします。

本能寺の変が起きた6月2日、はやくも光秀にとって大きな誤算が生じます。近江瀬田城主の山岡景隆兄弟に「同心仕り候へ」(『信長公記』)と申し入れるものの、兄弟は信長の厚恩に報いるべく、瀬田橋を焼き、居城に火を懸けて山中へ退却します。すぐさま光秀は、橋の修理を命じますが、安土に入城できたのは3日後の5日になってから。

天下に号令するためにはやはり、信長が君臨した安土をできるだけ早く抑えておく必要がありましたが、この初動の遅れが「光秀、頼むに足りぬ」という印象を世間に与えました。

ようやく安土城を接収した光秀は、明智方となった京極高次らの近江勢に命じて秀吉の居城・長浜城を落とし、城代として重臣の斎藤利三を入れます。しかし、このころ備中の秀吉はすでに信長の死を知り、毛利との講和をすませてしまっていました。翌6日、秀吉は陣払いをおこない、世にいう「中国大返し」を始めるのです(この事蹟は別の機会に詳述する予定です)。

ただし、光秀もただ時間を無駄に費やしていたわけではありません。南都興福寺の僧が書いた『多聞院日記』を読むと、山城や河内へ兵を出し、近江に続いて山城をほぼ制圧してます。9日には京へ凱旋して公家の吉田兼見邸へ入っています。しかし、その日、秀吉はすでに摂津の明石にまで戻って来ています。こうして安土接収の遅れが「光秀、頼むに足りぬ」という印象とともに、時間的ロスを生じさせ、このことがのちに大きく響くことになったのです。しかも、そこでまた大きな誤算が生じます……。(つづく)

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