信長という男② [織田信長]

信長が非情冷酷といわれる理由として、例の”薄濃(はくだみ)事件”とあわせ、杉谷善十房をノコギリ挽きの刑に処したことが挙げられます。

元亀元年(1570)、信長が京から岐阜へ帰国する山中でのこと。わずか20数メートルの至近距離で信長を狙うスナイパー(狙撃者)の銃口が開きます。信長を狙ったのは杉谷善十房という鉄砲の名手。根来寺の僧兵や忍者説が囁かれていますが、正体は不明です。そのスナイパーが発射した銃弾は2発。火縄銃の射程は約100メートルですから、スナイパーの善十房がはずすはずはありません。

しかし2発とも「(信長の)御身に少しづつ打ちかすり、鰐の口(極めて危険な状況)を御のがれ候」と『信長公記』は記しています。もしも天が歴史をうごかしているのだとしたら、まさにこのとき信長は天意によって命を救われたというしかありません。

それはともかく、善住坊はその後、近江の高島に潜伏しますが、隠れているところをみつかり、岐阜に連行されます。そのとき信長はまず、地面に掘った穴に善住房を立たせました。そして、肩まで土をかぶせ、地面から顔だけだした善住坊の首をノコギリで引かせたのです。

たしかに残忍な行為に思えます。しかし、戦国時代の刑罰としては、それほど珍しくはありません。江戸時代の定書によると、死罪の種類が以下の6種類あったとされています。

「斬首刑(軽)=埋葬可能」「斬首刑(中)=斬首後、死体は試し斬りに使用される」「火炙刑=公開刑」「斬首刑(重)=斬首後、首は三日間獄門にさらされる」「磔刑=死後も三日間死体が晒される」、そして最も重い「鋸挽刑=罪人を首だけ出して土に埋め、希望者に鋸で首を挽かせた」でした。つまりノコギリ挽きは現代でいう極刑(死刑)にあたる刑罰であり、人道的な是非はともかく、法に則った行為でした。

実際に温厚と評される徳川家康も、信長より残忍な方法でこのノコギリ挽きを実行しています。岡崎城下の辻に穴を掘り、まず首板をはめた罪人の指を全部切り落とした上で、足の筋を切って歩けなくします。そして、罪人を穴に放りこみ、通りがかった者に、そこに置いてあるノコギリで首を挽かせました。その罪人は一日中苦しみながら息絶えたといいます。(つづく)

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