信長という男① [織田信長]

宣教師ルイス・フロイスは織田信長を評して、

「彼の睡眠(時間)は短く、早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった(中略)自邸においてもきわめて清潔であり(中略)対談の際、遅延することや、だらだらとした前置きを嫌い、ごく卑賤の者とも親しく話した」(『日本史』)

といっています。このほか「大胆不敵」「心気闊達」「迷信的慣習の軽蔑者」だったと書き残してもいます。

以上の信長の性格に加えて、意外に思われるかもしれませんが、前回(「信長の懐刀だった光秀(最終回)」)でみたとおり、信長は「人を信じ過ぎる性格」だったようです。つまり、信長自身、懐刀だと思いこんでいた光秀を信じ過ぎ、それが「本能寺の変」へ至る導火線の役割を果たしたのだと考えています。反面、信長は猜疑心も人一倍だったようですが、”こいつは信じられるし、役に立つ男だ”と思った相手に対しては、とことん信じるところがあったのだと思います。

そして、よくいわれる信長の非情冷酷さ。この性格も、大きく見直す時期にきているのではないかと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか。

冷酷さを象徴するエピソードが、討ち滅ぼした浅井長政・久政父子と朝倉義景の髑髏を、薄濃(はくだみ=漆でかためて金泥などで薄く彩色したもの)の盃にして家臣らに飲ませたという話でしょう。ドラマで光秀がその髑髏の盃を前にあからさまな嫌悪感を示し、信長が嫌がる光秀に無理やり盃をとらせるシーンを見かけたことがあります。

しかし、ご承知のとおり、その話はまったくの作り話です。一級史料の『信長公記』には、岐阜城での年賀の祝いに

「三ツ(の髑髏を)、薄濃にして(中略)御肴に出され候て、御酒宴」

とあるのみです。酒宴の肴(さかな)として3人の髑髏を薄濃にして並べたのは事実ですが、盃にして飲み回したという話は行き過ぎです。江戸時代に書かれた小説『織田軍記』にも、薄濃の髑髏に、それぞれ名札を貼りつけたという尾ヒレがついているものの、回し飲みの記述はありません。いまでは、髑髏を薄濃にする行為には供養の意味がこめられていたといわれています。

引き続き、次回(明日の予定)も、非情冷酷といわれる信長の性格について考えていきたいと思います。(つづく)


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