関ヶ原古戦場③ [石田三成]

石田三成は、大坂城防衛のための第1ラインとして「尾張・三河国境」(桶狭間周辺)を考えていましたが、結局、そこで東軍の西上を抑えることはできませんでした。

その理由はまたの機会に述べさせていただきますが、次に三成が設定した第2の防御ライン、それが「美濃・尾張国境」でした。木曽川を防御ラインとする作戦といいかえてもいいと思います。三成は美濃の中心・岐阜に東軍の主力を集め、木曽川を越えて攻めかかってくる東軍を返り討ちにしようとしていたようです。

それができなくとも、西軍方には”天下の堅城”と呼ばれる岐阜城があります。この城の城主は織田信長の嫡孫・秀信(幼名・三法師、父は本能寺の変で討ち死にした信忠)。この城で東軍の大軍を釘付けにして、戦線が膠着したら、必ずや、東軍に属する豊臣恩顧の武将(福島正則や細川忠興ら)が西軍へ寝返ると踏んでいたのでしょう。

ところが、三成の作戦は虚しく終わり、先手を打った東軍により、この”天下の堅城”はたった1日で落城してしまいます。かつての城主池田輝政が寄せ手(東軍の先鋒部隊)に加わっており、城の弱点を知り尽くしていたや三成の救援が遅れたことが、大きな理由だと考えられます。

ただ、三成も、これで挫けるほど軟な男ではありません。この男はすでに、“第3の手”を打っていました。それが関ヶ原での“籠城作戦”です。

下は、関ヶ原の三成本陣から松尾山(写真中央)方面をのぞんだ写真です。

三成の陣より松尾山方面望む.jpg

三成は”関ヶ原籠城”のため、この松尾山に注目していたのです。(つづく)




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