関ヶ原古戦場④ [石田三成]

関ヶ原が大会戦に適した土地でないのは明らかですが、それでも古来より交通の要衝であり続けたことに変わりはありません。

そのため、浅井氏滅亡後、織田信長は関ヶ原を重要拠点と位置付け、松尾山に城を築かせていました。ところが、信長の死後、廃城になっていたようです。この“関ヶ原城”ともいえる城に注目したのが石田三成でした。

関ヶ原合戦当時、「松尾之新城」という城の名が史料にみえ、いったん廃城になったあと、関ヶ原合戦のころ、松尾山に新城が築かれていたことがわかります。三成は第3の防御ラインをこの「松尾新城」と決め、修復させていたのです。

一方、家康は短期決着をめざし、東軍主力が長駆、佐和山城(三成の居城、彦根市)を衝くというデマを流して、三成を大垣城から関ヶ原に引っ張り出そうとしたという通説があります。しかし、以上のことから、三成はそのデマに乗ったわけではなかったことがわかります。

このときも三成は“勝利の方程式“を頭に思い描いていたはずです。その方程式は、大坂城で留守を預かる奉行の増田長盛へ宛てた手紙に示されています。

「江濃之境目(滋賀・岐阜県境)松尾之城(中略)中国衆入れ置かれるべく、御分別もっともに候」

つまり三成は、中国衆=西軍総大将の毛利輝元を大坂城から前線の「松尾之城」へ移し、この関ヶ原の城に籠城して、居城の佐和山城などを後詰めとなしつつ、長期戦に持ちこもうという作戦だったのだと思います。

三成はもしかしたら、輝元だけでなく、大坂城から豊臣秀頼を移す魂胆だったのではないでしょうか。もしも秀頼が前線の城に入ったなら、豊臣恩顧の武将らを主力とする東軍は瓦解していたはず。三成が大坂防衛のギリギリのラインとして関ヶ原を想定していたのは事実ですが、彼の頭の中にあるのは籠城戦。東西両軍が関ヶ原の大地を血に染め、ぶつかりあう野戦ではありませんでした。

ところが、皆さんよくご存じの”あの男”によって、三成の周到な作戦が大きく狂い始めます。松尾山といえば、小早川秀秋です。

秀秋が東軍方の城を攻めながら関ヶ原へ軍を進め、新城のある松尾山に陣取ってしまったのです。このとき秀秋は東西両軍あわせ3番目の大軍勢(1万5600)を率いており、三成も秀秋にへそを曲げられたら困ります。だから秀秋の動きを怪しみつつも、その横暴を認めるしかなかったのでしょう。そして、秀秋は三成が懸念したように西軍を裏切ります。

こうして三成の作戦はすべて”机上の空論”に終わり、運命の9月15日を迎えます……。

下は関ヶ原古戦場の「開戦地の碑」です。

開戦地①.jpg

(つづく)
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