関ヶ原古戦場② [石田三成]

なぜ関ヶ原で合戦がおこなわれたのでしょう。

その理由を石田三成(西軍)サイドからみていきましょう。

三成は、西上する東軍を迎え討つにあたり、3段階の防御ラインを考えていました。彼がまず第1の防御ラインとしたのが、尾張と三河の国境線でした。

三成は、当時まだ西軍方に与していた水戸城主の佐竹義宣に、こんな手紙を送っています。
「家康うろたえ上り候えば、尾州・参州の間にて討ち果たす儀、案内にて候」(家康がうろたえて出てきたら尾張と三河の国境で討ち取るのは、たやすいこと)

この尾張と三河の国境というのは、かつて織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間付近のこと。街道の両側に丘陵地帯が続き、大軍にとって危険な地形となっています。

家康の東軍は丘陵の間をくねくねと縫うように進まねばならず、そこを急襲するというのが三成の作戦でした。しかも、家康は江戸防衛上、西軍に属する奥州・信越勢に備えるため、江戸および周辺に守備兵を駐留させねばならず、三成は西上する家康の軍勢を「二万ばかり」と予測していました。

だからこそ、「尾州・参州の間にて討ち果たす儀、案内にて候」という自信をのぞかせていたのです。

ところが、この作戦は実行されませんでした。(つづく)

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