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「湖渡り伝説」について② [明智秀満]

明智光秀の娘婿(諸説あり)とされる秀満は、天正10年(1582)6月、光秀が山崎の合戦で羽柴秀吉に大敗したあと、織田信長の居城だった安土から光秀の持ち城である坂本まで逃げ帰っています。

その際、単騎、琵琶湖に馬を乗り入れ、秀満は十㌔の道程を馬で渡り終えたとされます。江戸時代初期に成立した『川角太閤記』などで描かれる戦国時代の名シーンのひとつです。

本当だったのでしょうか。

山崎の合戦の直後、秀吉の祐筆が書き下ろした『惟任退治記』という史料があります。この史料は、”勝者(秀吉)”側が書いた歴史書であるため、光秀を意識的に”世紀の謀叛人”へとおとしめており、諸手を挙げて、その内容に敬意を表するわけにはいきません。

しかし、まだ合戦の記憶が生々しいときに書かれた史料として価値があり、かなり時間がたったあと、つまり、人々の噂話が混同しやすい『川角太閤記』より信用できる部分もあると思います。

その『惟任退治記』に僅かながら、秀満湖渡りに関するくだりがあり、
「弥平治(秀満のこと)、小舟を取り乗り、坂本城に籠る」
と記されています。

この記述によると、秀満は馬を直かに汀に乗り入れたのではなく、馬に乗ったまま小舟に乗って湖を渡ったことになります。

おそらく、”馬ごと小舟に乗った”秀満の姿が誇張されて伝わった――というのが真相だと思います。

以上、私はこう結論付けましたが、ほかにも、さまざまな解釈があると思います。皆さんも自分なりの真相を見つけてください。
(また来週、新しいテーマをアップします)



「湖渡り伝説」について① [明智秀満]

週刊大衆のGW(ゴールデンウイーク)前の合併号にて「明智光秀と坂本龍馬の関係」について取り上げました。

同記事中、光秀の娘婿・明智秀満の湖渡りについて触れています。山崎の合戦で明智軍が羽柴軍にわずか2時間の戦闘で蹴散らされ、安土城を預かっていた秀満はその敗報に接し、坂本城へ逃げ帰ります。

ご存じのとおり、秀満という武将そのものが謎であり、一般的に光秀の家臣の三宅弥平治が光秀の長女を妻に娶り、明智秀満になったとされますが、そう明記する史料はなく、左馬之助という通称のほか、諱(いみな)も複数あって、光俊や光春とも呼ばれています。したがって、三宅弥平治と明智秀満は別人物だとする説もあるほどです。この秀満自身についての謎解きはまたの機会に譲るとして、本当に彼は安土から坂本まで馬上、湖を渡って帰城したのでしょうか。

この話は、ともに江戸時代に成立した『常山紀談』や『川角太閤記』に出ています。

秀満は坂本へ撤退する途路、本道を敵(羽柴秀吉軍)に塞がれ、やむなく琵琶湖に馬を乗り入れたといいます。敵は渚まで来て「溺れん有様を見よ」と笑いあったが、そんな嘲笑をものともせず、彼は粟津(大津市)の北から唐崎(同)まで、よく知りたる遠浅の湖を見事、渡りきったといいます。

しかし、いくら遠浅とはいえ、粟津から唐崎までは、直線距離にして、およそ10㌔。馬がそれだけの距離を泳いで渡れるとは思えません。ところが、ホーストレッキング(馬に乗り、自然のなかで散策を楽しむこと)をしている人に話を聞くと、「基本的に渚沿いに進むという前提で、その程度の距離なら可能ではないか」といっています。その一方、地元の人の話だと、「琵琶湖の瀬田川河口付近は流れが複雑。湖渡りなどは無理」ということです。当然、秀満は甲冑をつけていたはずですから、自身の体重に加えて、甲冑の重さ(およそ30㌔)も負荷として馬にのしかかります。

さて、真相やいかに? (つづく)



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