「湖渡り伝説」について① [明智秀満]

週刊大衆のGW(ゴールデンウイーク)前の合併号にて「明智光秀と坂本龍馬の関係」について取り上げました。

同記事中、光秀の娘婿・明智秀満の湖渡りについて触れています。山崎の合戦で明智軍が羽柴軍にわずか2時間の戦闘で蹴散らされ、安土城を預かっていた秀満はその敗報に接し、坂本城へ逃げ帰ります。

ご存じのとおり、秀満という武将そのものが謎であり、一般的に光秀の家臣の三宅弥平治が光秀の長女を妻に娶り、明智秀満になったとされますが、そう明記する史料はなく、左馬之助という通称のほか、諱(いみな)も複数あって、光俊や光春とも呼ばれています。したがって、三宅弥平治と明智秀満は別人物だとする説もあるほどです。この秀満自身についての謎解きはまたの機会に譲るとして、本当に彼は安土から坂本まで馬上、湖を渡って帰城したのでしょうか。

この話は、ともに江戸時代に成立した『常山紀談』や『川角太閤記』に出ています。

秀満は坂本へ撤退する途路、本道を敵(羽柴秀吉軍)に塞がれ、やむなく琵琶湖に馬を乗り入れたといいます。敵は渚まで来て「溺れん有様を見よ」と笑いあったが、そんな嘲笑をものともせず、彼は粟津(大津市)の北から唐崎(同)まで、よく知りたる遠浅の湖を見事、渡りきったといいます。

しかし、いくら遠浅とはいえ、粟津から唐崎までは、直線距離にして、およそ10㌔。馬がそれだけの距離を泳いで渡れるとは思えません。ところが、ホーストレッキング(馬に乗り、自然のなかで散策を楽しむこと)をしている人に話を聞くと、「基本的に渚沿いに進むという前提で、その程度の距離なら可能ではないか」といっています。その一方、地元の人の話だと、「琵琶湖の瀬田川河口付近は流れが複雑。湖渡りなどは無理」ということです。当然、秀満は甲冑をつけていたはずですから、自身の体重に加えて、甲冑の重さ(およそ30㌔)も負荷として馬にのしかかります。

さて、真相やいかに? (つづく)



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