黒田如水「天下取りの野望」の謎④ [黒田如水]
如水が中央の混乱に乗じて天下を奪い取ろうとした話は、『常山紀談』などの非公式な史料が主な出典です。
黒田家の正史ともいえる『黒田家譜』には、九州の兵を率いて京へ攻め上ると書かれてはいるものの、それは「家康公へ忠節を尽さん」がためと明言されています。
あくまで”徳川のため”であって、”おのれの野望のため”ではありません。
もちろん、徳川の世になってから、さすがに藩祖(如水)が徳川の天下を横取りしようとしていたとは書けないから、事実を隠ぺいしたともいえます。
しかしながら、徳川家康から如水へ宛てた書状に「たびたび注進の旨、その意を得候」とあるのはどう理解したらいいでしょうか。この書状から、如水は九州平定戦の渦中、再三家康へ戦況報告していたことがわかります。
実は、大友義統が石垣原で如水に敗れ、降伏したのが9月15日。まさに関ヶ原で天下分け目の決着がついた日でした。如水がこの事実を知るのはまだ、豊後の諸城を攻めていたとき。ここで天下大乱は収束し、如水の野望も潰えているはずです。
ところが、如水はその後もなお、軍を進めています。それはなぜだったのでしょうか。
(つづく)
[緊急のお知らせ]
ご一読ありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※本シリーズ終了後、最新記事は引っ越し先のブログのみに掲載させていただきます。
黒田家の正史ともいえる『黒田家譜』には、九州の兵を率いて京へ攻め上ると書かれてはいるものの、それは「家康公へ忠節を尽さん」がためと明言されています。
あくまで”徳川のため”であって、”おのれの野望のため”ではありません。
もちろん、徳川の世になってから、さすがに藩祖(如水)が徳川の天下を横取りしようとしていたとは書けないから、事実を隠ぺいしたともいえます。
しかしながら、徳川家康から如水へ宛てた書状に「たびたび注進の旨、その意を得候」とあるのはどう理解したらいいでしょうか。この書状から、如水は九州平定戦の渦中、再三家康へ戦況報告していたことがわかります。
実は、大友義統が石垣原で如水に敗れ、降伏したのが9月15日。まさに関ヶ原で天下分け目の決着がついた日でした。如水がこの事実を知るのはまだ、豊後の諸城を攻めていたとき。ここで天下大乱は収束し、如水の野望も潰えているはずです。
ところが、如水はその後もなお、軍を進めています。それはなぜだったのでしょうか。
(つづく)
[緊急のお知らせ]
ご一読ありがとうございます。大変恐れ入りますが、本ブログは次のアドレスへ引っ越しました。
http://ameblo.jp/atobeban/
※本シリーズ終了後、最新記事は引っ越し先のブログのみに掲載させていただきます。
2011-10-03 10:52
nice!(1)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0