黒田如水「天下取りの野望」の謎② [黒田如水]

如水の天下取りにとって、まず九州平定が欠かせない条件でした。

そこで如水は、肥後の加藤清正(東軍)と連携し、細川忠興(東軍)が飛び地として預かる豊後・杵築城の城代・松井康之(細川家重臣)らを味方に引き入れました。

一方、九州には小早川秀秋(筑後・名島城主)や立花宗茂(同・柳川城主)ら西軍に属する諸将の領地が多く、しかも、城主は軍勢を引き連れ、中央へ出陣中です。如水は、おのれの智謀をもってすれば、“空き巣働き”同然に九州を平定するのは、たやすいことだと考えていたのでしょう。

ところが、如水は中央へ出陣中の嫡男長政から中津城の留守を預かる身。長政は大勢の家臣を引き連れ、徳川家康率いる東軍に従軍していました。したがって本拠の豊前中津城に居残る兵はわずか。しかし、如水は早くから天下大乱を予見し、準備を怠っていませんでした。

まず、人から吝嗇(ケチ)との誹りを受けながらも城内に金銀を蓄え、そのカネで浪人らをかき集めたのです。その数、「都合三千六百餘人」(『黒田家譜』)と記されています。

さらに如水は大坂・鞆ノ津(広島県福山市)・上ノ関(山口県上関町)に早船を置き、上方の情勢をリレー方式で本国豊前まで伝える体制を整えました。

そのため如水は西軍の石田三成挙兵の情報をいち早く手に入れ、慶長5年(1600)の9月9日、およそ9000の軍勢で、まずは大友勢に包囲された豊後・杵築城の救援へと向かいます。

豊後の旧国主・大友義統はかつて秀吉の逆鱗に触れ、領地を召し上げられましたが、三成サイドから銀子や武器・甲冑・馬などを与えられ、軍勢を募って旧領回復に燃えていたのです。

しかし、黒田勢が杵築城の救援に馳せ参じるや、大友方は囲みを解いて退却し、石垣原(いしがきばる)(別府市)において、如水は大友軍を打破るのです。
(つづく)

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