桶狭間の謎と真相② [織田信長]

桶狭間で討ち死にした今川義元の目的が上洛だったという説は、史料的に信頼性が乏しい『甫庵信長記』を原本とする話であり、信用することはできません。一方、一級史料の『信長公記』のどこを読んでも、義元の軍勢が京をめざしていたとは書かれていません。いまや、上洛戦でなかったことが歴史の定説になりつつあります。

それでは義元の目的は何だったのでしょうか。『信長公記』にその答えが示されています。


「今川義元沓懸へ参陣。十八日の夜に入り、大高(おおたか)の城へ兵粮入れ(後略)」

という部分です。義元が入った尾張の沓懸城(豊明市)は、そのころ今川の勢力圏に組みこまれており、5月18日の夜、義元は、その沓懸からさらに10キロほど信長の勢力圏へ踏みこんだところにある今川の前線基地(大高城=名古屋市)へ、兵粮を送ることをまず第一に考えていたことがよくわかります。

続いて『信長公記』は、織田方が大高城などの補給路を断つためにもうけた丸根・鷲津(名古屋市)ほかの諸砦へ、今川勢が19日の早朝、攻撃を開始する作戦であった事実を記しています。ここから義元の目的が明らかになります。

当時、三河と尾張の国境付近は10年以上にわたって、今川・織田が攻防を繰り広げ、桶狭間の合戦の前年(1559年)にも両軍が衝突しています。

そのころ今川の人質だった松平元康(のちの徳川家康)は若干18歳の若武者でしたが、織田の包囲網をかいくぐり、見事、大高城へ兵粮の運び入れに成功しています。家康はまず、荷駄隊とわずか800ばかりの小勢を率いて大高城から20町(約2キロ)のところまで来て伏せさせました。そして別の兵4000に織田方の小さな砦を攻めさせます。すると、それらの砦から上がる焔や鬨の声を聞きつけ、丸根・鷲津砦(前出)から多くの兵が駈けつけて両砦は手薄になりました。その隙に乗じて家康は大高城への兵粮入れに成功するのです。

このとき、家康の奇策によって大高城は救われたましたが、もし大高城の兵粮が絶たれて落城していたら、義元は、せっかく築いた尾張侵略の橋頭保を失うことになります。そこで翌年、ふたたび家康に大高城への兵粮入れを命じるとともに、自身、その後詰のため大軍を率いて尾張に乱入します。これを期に義元は、織田方の諸砦を粉砕して東尾張に確乎たる地盤を築く考えだったのでしょう。

つまり、義元の西上の目的は、上洛どころか、大高城という尾張侵略の拠点となる小城(こじろ)の後詰めにあったことになります。(つづく)


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