桶狭間の謎と真相① [織田信長]

永録3年(1560)5月、尾張平定の途上にあった織田信長が人生最大のピンチを迎えます。東海の覇者、今川義元が2万5000の大軍勢を率い、尾張へ侵攻してきたからです。

相撲の番付に喩えるなら、このころまだ信長はようやく新入幕を果たし、幕内上位を目指して駈け上がっている注目株に過ぎません。一方の義元は大関か関脇、少なくとも三役クラスにあるのは間違いありません。その義元の大軍を蹴散らし、大将義元の首級を挙げたのですから、大殊勲です。したがって、ご存じのとおりこの合戦は、信長が戦国時代の表舞台に立ったデビュー戦と位置付けられています。

通説は、信長が5倍以上の敵を破ることができた理由を「奇襲攻撃」にあるとしていますが、決してそうではありません。それでは信長の勝因は何だったのでしょうか。この謎と真相について皆さんと共に考えていきたいと思います。

まず、通説の「嘘」を暴いていきましょう。

そもそも、義元が尾張へ侵攻した理由からして嘘にまみれています。通説としてよく語られるのは、義元が上洛の途上、まず目障りな尾張を踏み潰そうとしたというものだと思います。しかし、この上洛説は『甫庵信長記』を原本とし、明治以降、大日本帝国陸軍参謀本部により、われわれ国民の脳裏に刷りこまれた話だと考えています。

『信長記』の筆者小瀬甫庵には誇張癖があり、そもそも生まれたのは桶狭間の合戦の4年後。後年、一級史料の『信長公記』をもとに、

「ここに今川義元は天下へ(諸将を)切(斬)りて上り、国家の邪路(邪道)を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ち(後略)」

と勇ましく、義元が上洛して天下を斬り従えるために駿河を出陣したと叙述しています。そして、明治31年(1898)に陸軍参謀本部が発行した『日本戦史』の「桶狭間の戦」の項の書き出しは、

「戦国時代における英雄豪傑中、東海道方面にあったものは、地理的に力を中原(中央)に伸ぶるの便が多かった為(中略)天子を奉ずることを最も捷徑(近道)と考へ、何れも京都の占有を目的となし、その行動を律した」

ではじまります。 『甫庵信長記』の記述を踏襲し、そこに、「天皇」を奉じている軍部の思惑を絡み合わせた一節といえるのではないでしょうか。

しかし、とくに「戦国時代の英雄豪傑はみな天子を奉ずるため京都の占有をめざした」とする『日本戦史』の記述は、のちに信長が上洛を遂げ、天下をほぼ掌中にした歴史的事実からくる誤解だと思っています。その事実があるからこそ、戦国時代の英雄はみな、京をめざしたように思われがちですが、義元は上洛を目指していたわけではありませんでした。(つづく)





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