桶狭間の謎と真相④ [織田信長]

『信長公記』に織田軍の進軍ルートが書かれています。信長は2000の部隊を率い、

「居城の清洲城(清須市)→熱田神宮(名古屋市)→善照寺砦(同)→中島砦(同)→桶狭間(同)」

と進んでいます。そのルートを地図上に落としてみると、迂回どころか、ほぼ一直線に桶狭間へ向かっていることがわかります。

信長の本隊が2000の兵力だった理由は、各砦の守備兵や遊撃隊(後述します)に兵を割いた結果だと思います。

一方、桶狭間周辺は丘陵の間を縫うように街道が走っており、大軍の行軍が難しい土地でした。したがって、今川義元も1万余の兵を分散させざるを得ませんでした。

また、信長が善照寺砦から中島砦へ軍を進めようとしたとき、道の両脇は深田のため一列渋滞になるしかなく、家老の衆が、

「敵方よりさだかに相見え候」(『信長公記』)

つまり、敵から丸見えになるといい、信長の馬の轡の引手にとりすがって止めています。このように尾張と三河の国境周辺は、合戦するのに決して適した土地ではありませんでした。

ここで少し考えたいのは、「敵から丸見えになる」という家老衆の制止を振り切り、信長が最前線の中島砦に軍を進めたこと。この話からも、信長が「迂回奇襲」を意図していなかったことはたしかだと思います。進軍が敵にバレてしまっては奇襲の意味がなくなるからです。

しかし、信長は大軍相手に無策なまま正面攻撃を仕掛けようとしたわけではありません。信長の本隊が義元の本陣を襲う前に、前田利家らの部隊が今川勢とひとあたりした事実が、『信長公記』に記されています。彼らは遊撃部隊として、信長から今川勢を誘い出す陽動作戦の使命を帯びていたのだと考えています(その作戦が成功したかどうかは定かではありません)。

そして、斥候から義元が桶狭間山で休息中という報告を聞いた信長は正午ごろ、攻撃を命じます。

ただし、問題は義元の本陣が「山」にあったこと。義元の本陣が丘陵と丘陵の間の谷、つまり狭い窪地にあったと、俗説はわれわれに印象付けてきましたが、実際にはまるで逆でした。『信長公記』にも「おけはざま山」と書かれています。ただし、それがどの丘陵を指すのかは不明です。おそらく、名古屋市東部と豊明市付近に広がる、なだらかな丘陵全体を「おけはざま山」と呼んでいたのでしょう。

山の上で兵に休息を与えるのは兵法の常道。そして、桶狭間山にいた今川方の偵察兵は、丘陵と丘陵の間を進んでくる信長の本隊をしっかり捕捉していたのです。(つづく)

下の写真は高徳院境内にある「義元本陣跡の碑」(たしかに高徳院の境内はゆるやかな丘陵上に広がっていました)。

高徳院①.jpg


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